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2007年9月25日 (火曜日)

核と平和テロ特措法は必要か?

本日(2007年9月25日)、福田康夫氏が総理大臣に選出された。このことについては、また別のところで触れるかもしれないが、今の政局で問題になっていることに、その第一として「年金問題」があるが、「テロ特措法の延長問題」も大きな問題として注目を集めている。
このことについての意見から書いていくつもりだが、テーマを「核と平和」と大上段に振りかぶりすぎたので、自分でも最後まで書き続けられるのかわからないが、要は「平和」について考えていきたいというページです。
       
追記(2007年10月10日)
      
僕は、この中で、①「テロ特措法」には反対である、②国連は紛争解決にもっと頑張るべきだ という内容の文章を書いているので、今月(2007年10月)に入って注目されている民主党の小沢代表の「アフガニスタンで展開する国際治安支援部隊(ISAF)への参加」にも賛成していると思われたくないので一言。
        
「集団的自衛権の行使」は、言うまでもなく憲法違反である。また、別の議論にもなるが、僕は「憲法第9条」を変えてはならないと思っている。この話を始めると長くなるので別の機会に触れたいと思うが、小沢代表の「ISAFは国連決議に基づいているので、それに参加しても憲法違反とはならない」という主張は、全く理解できない。憲法が日本においては(他の国でも)全ての決議・決定に勝るということを知らないのか。憲法は(特に第9条は)解釈がよく問題となるが、さすがに「拡大解釈」でもそれは無いだろうと思う。僕は、彼が幹事長を務めるなど自民党にいるときからその考え方や主張には反対だったが、野党になって多少は賛成できることも言う(これは、「野党」だからこそ)と思っていたが、先の参議院選挙の勝利はまた彼の「本質」を表面化させる契機となったのだろうか。「これは個人の考えではなく民主党の政策として決められている」「嫌なら離党すればいい」という発言については、民主党の内部の問題だからほっとけばいいとは思うが。
2001年、アメリカにおいて「9.11同時多発テロ」が発生した。
これを受けて、同年、日本において「テロ対策特別措置法」が成立した。そして、この法律を根拠として、政府は海上自衛隊の護衛艦や補給艦をインド洋に派遣し、アメリカをはじめこれに同調する国々の艦船に給油活動を行ってきた。当初は2年間の時限立法だったはずが、法案の延長を3回にわたり行ない、現在に至るまで続けているのだが、参議院選挙で民主党が勝利し、小沢代表が11月に期限の切れるこの法律の延長に同意しないことを明確にしているため、最近何かと取り上げられることとなった。
     
         
       
① テロに対する考え
テロ行為を認めるわけにはいかない。これは当たり前のこと。自分の主義・主張のために罪も無い人々の生命や財産を脅かすことは許されないことである。このことに対し疑問を持つ人はいないだろう。ただ、「自爆テロ」に関するニュースを見ていると、テロ実行犯には、もちろん「洗脳」はあるだろうが、「自分の命を犠牲にしてでもでもやりとげる」という強固な意志が感じられる。この「意志」の背景に何があるのか?
      
民族の違い、宗教の違い、過去や現在の戦争や対立、差別、侮辱等の歴史、etc.   どこまでを許し、どこまでを受け入れるのかは、人によって程度によって違うだろう。だけど過去に戦った相手が永久に敵であり続けることはないはずである。そんなことを言っていたら、今の日本がこれほどまでにアメリカべったりの政策を採るはずもない。では今現在戦っている相手に対してはどうか? 空母やミサイル艦による攻撃は「正義の戦い」で、爆弾とともに死んでゆくのは「悪のテロ」なのか? 
       
誤解しないでほしい。僕は「テロ」を肯定しようとしているのではない。確かにこの世の中に「やむを得ない戦争」というものが全く無いとも思えない。仮に僕が誰かに家族を殺されたとしたらその相手を殺したいと思うだろう。だけど、どこかで戦争が行なわれているとき、その規模の大小にかかわらず、一方が100%「悪」で、もう一方が100%「正義」だということがあるのだろうか。もっと言えば、今戦っている相手が本当に「真の敵」なのか。
      
少なくとも、僕は、「何があろうとアメリカが100%正義である」とは思っていない。
      
      
       
② 「イラク特措法」と「テロ特措法」
「イラク特措法」とは2003年8月1日にできた法律で、正式名称を「イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法」という。「テロ特措法」とはそれより2年前の2001年11月2日に施行されたもので「平成十三年九月十一日のアメリカ合衆国において発生したテロリストによる攻撃等に対応して行われる国際連合憲章の目的達成のための諸外国の活動に対して我が国が実施する措置及び関連する国際連合決議等に基づく人道的措置に関する特別措置法」が正式名称である。そんな長い名前を覚えている人なんているのだろうか? まあそれはともかく、この二つの法律はごっちゃごっちゃになりやすい。「イラク特措法」についても、自衛隊の海外派遣に関しては反対なので言いたいことはいっぱいあるが、とりあえず今回は、「テロ特措法」について話を進めていく。
      
まず最初に断っておくと、僕は今から「民主党」の意見を代弁するつもりは無い。そんな立場ではないし知識も無い。もっと言えば特に民主党の支持者でもない。だから、自民党支持者はもちろんだが、民主党支持者からも「言っていることが違うぞ」と言われるかもしれないが、あくまで「僕の意見」です。ただ、この件に関する他の記事を参考にすることはある。「テロ特措法」の正式名称なんて覚えているわけが無いから「首相官邸ホームページ」などを見させてもらって書いています。まさか「反対する者は見るな」なんて言いませんよね。
      
この「首相官邸ホームページ」の中の「テロ特措法」のページに「Q&A」がある。「自衛隊はどのようなことを行なってきたのですか。」の問いに対して
1.  日本は、これまでに、テロ対策特措法に基づいて、
(1)  協力支援活動として、
・米軍等の艦船への燃料の提供、
・米軍の物資等の航空機による空輸、
・タイ陸軍工兵部隊への海上輸送支援等
を実施してきているほか、
(2)  被災民救援活動として、
・国連難民高等弁務官事務所の要請によるテント等の海上輸送
を実施してきました。
2.  このような日本の支援は、テロの防止及び根絶のための国際社会の取組に大いに貢献しており、日本を含む国際社会の平和及び安全の確保に寄与するものです。
という文が回答として記されてある。とにかく「米軍等の艦船への燃料の提供」が第一に、「米軍の物資等の航空機による空輸」が二番目に書かれてある。「国連軍」とは書いてありません。もちろん国連軍ではないからです。まあ、国連軍なら良いというつもりも無いけれど。
      
      
      
③ アメリカのアフガニスタン攻撃、そしてイラク戦争
事の起こりは、「9.11同時多発テロ」であることは言うまでもない。僕はこの日と翌日、仕事がお休みだったのでひたすらテレビを見続けていた。
テロ首謀者の捜査からどういう経路があったのかはわからないが、アメリカはアフガニスタンへの侵攻を開始し、イギリス等がこれに追随した。細かな経緯はわからないし割愛するが、この「9.11同時多発テロ」は、国際テロ組織「アルカイダ」の指導者「ウサマ・ビン・ラディン」が中心となって起こしたことは、本人たちの声明もあり間違いのないことなのだろう。彼らの引き渡しを拒否する「イスラム原理主義」のタリバンを攻撃するため、アメリカはアフガニスタンに対する空爆を開始したのである。
       
アメリカは、特にブッシュ大統領は、「テロとの戦い」を強調し、北朝鮮、イラン、イラクを「テロ支援国家」として非難した。特にイラクのフセイン大統領が「大量破壊兵器」を所持しているとし、かなり「難癖をつける」形で2003年にイラク戦争を引き起こしていく。当時のニュースを見ていてフセイン大統領の強気な発言も信じられないものがあった。その政策がクルド人への弾圧など国際社会の中で「正義」であったとは思えないが、①「大量破壊兵器」が無かったこと、②開戦に今一歩盛り上がらないアメリカ国民への世論操作のために病院への無差別攻撃をでっち上げたこと、これらは現在では誰もが知っている事実である。日本の戦国時代、戦(いくさ)は統治の道具でもあった。相手から取り上げた領土を部下に分け与えることで戦国武将は部下の不満をかわしてきた。豊臣秀吉が朝鮮に出兵したのも国内に切り取れる土地が無くなった為である。ブッシュ大統領は「領土」うんぬんはともかく、己の人気の低下への対抗策として「国民意識の高揚」を手軽に行なえる道を選んだのだろうか。また、当然ながらこの地域を思い通りにすれば「石油」も思い通りになる。アメリカの石油関係者の思惑は働いてはいないのか。
       
「9.11同時多発テロ」は大きな悲劇である。けしてあの行為は許してはならない。そして同時に、あの悲劇に対する「怒り」もまた、けして利用されてはならないものである。
       
      
      
④ アメリカ艦船への給油は「国際貢献」なのか
「国際貢献」という言葉がある。日本は確かに一定以上の経済力を保持しており、国際的諸問題に積極的に取り組むことを僕も否定するつもりは無い。ただ、「アメリカへの貢献」と「国際貢献」とは全く別のものだ。日本はアメリカの同盟国である。しかし同盟国は日本以外にもいっぱいあるが、日本ほどすぐ金魚の糞とはならない国もある。フランスやドイツはイラク攻撃には反対した。日本の歴代総理大臣はアメリカ大統領の発言を誰よりも先に肯定し支持を表明することが自分の役目とでも思っているのだろうか。
      
アメリカやイギリスの艦船への給油は、すでに30万キロリットルを超え、金額は100億円を超えている。特にアメリカ艦船への給油が多いのだが、これらは「アメリカの補給艦に補給する」という形をとるらしい。そしてこのアメリカの補給艦はイラクへの軍事攻撃を行なう艦船にも補給を行なっていた。日本政府は「軍事行動には使われていない」と言うが、油に名前や荷札シールが貼ってあるのか。アメリカの「核」搭載艦が日本に寄港する際、「アメリカ政府は日本の非核三原則を尊重しており、そのようなことは無いと信じている」という答弁があるが、それよりもさらに「お笑い」ではないか。このような苦しい言い訳をしながらでも、その油の使い道である軍事行動が「正義」のものであるならば、あるいは現在の日本の法律に反していたとしてももしかしたら許されるかもしれない。しかし、「真の平和」というよりは「アメリカの威信」「アメリカの都合」のためが目的の戦争に加担することが、国際貢献とは思えない。
      
問題は異なるが、「京都議定書」なるものがある。地球温暖化防止京都会議で議決されたものだが、めずらしくアメリカと日本で「表面上は」意見の異なるものである。これを主催した日本として、この「地球温暖化防止」のための努力とかが、例えば日本に求められる国際貢献ではないのか。現在イラクに自衛隊が派遣されているが、「金だけ出しても駄目なんだ」という人の意見らしい。イラク復興は重要だとは思うが、フセインの問題もあっただろうが、現在のイラクの状況を作ったのは誰だ? 「金だけ出しても駄目」ではなくて、「アメリカの言いなりに金も出しては駄目」だろう。ただ、背景に問題があっても今の現実がある以上、「支援」そのものを否定はしないが。
       
      
      
⑤ 「核の傘」は必要か
少し話を変えて、今の北朝鮮について考えてみたい。「拉致問題」に関してだけは、安倍政権誕生のとき唯一「多少は期待した」ものだが、アメリカにとってそれは全く重要な事柄ではないので、案の定、全く進展していない。今、世界は北朝鮮が「核政策」を放棄するかどうかに関心を注いでいる。北朝鮮もたぶん本気で核を開発する気があったというより、「核を放棄する見返り」を期待した部分が大きいのではないか。
      
わりと小さい頃から疑問に思っていたのだが、核兵器の話において「核は駄目だ」とは言うのだが「アメリカは核を捨てなさい」とはあまり言わないのはなぜかということがあった。近いところでは例えばインドあるいはパキスタンが核兵器を保持しようとすると日本政府も反対する、では、なぜアメリカの核は許されるのか? 現在、世界に「核保有国」はアメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国、インド、パキスタン等があり、他にも持っていることが確実な国やその疑惑のある国がいくつかある。もちろんアメリカ等はその保有を隠しはしないが日本政府がアメリカの核保有を公式に非難することなんて無い。核は「持っててよい国」と「持ったら駄目な国」があるのか。
      
「核兵器不拡散条約(NPT)」というものがある。、1963年に国連で採択され1968年に調印されたもので、アメリカ、ロシア、中国、フランス、イギリスの5カ国は核を持っても良いが、それ以外の国が持っては駄目で、国際原子力機関がこれを監視するというもの。この条約で核の「拡散」を認めず、軍縮に貢献していくものだという。日本ももちろん批准している。外務省のホームページの「外交政策」からの抜粋を以下に記す。
1.NPTの概要
     
(1) 条約の成立及び締約国
  (イ) 核兵器の不拡散に関する条約(Treaty on the Non-Proliferation of Nuclear Weapons:NPT)は、1968年7月1日に署名開放され、70年3月5日に発効(我が国は1970年2月署名、1976年6月批准。)。
  (ロ) 締約国は190ヶ国(2007年5月現在)。非締約国はインド、パキスタン、イスラエル。
      
(2) 条約の目的と内容
  (イ) 核不拡散:
 米、露、英、仏、中の5ヶ国を「核兵器国」と定め、「核兵器国」以外への核兵器の拡散を防止。
(参考)第9条3「この条約の適用上、「核兵器国」とは、1967年1月1日以前に核兵器その他の核爆発装置を製造しかつ爆発させた国をいう。」
(ロ) 核軍縮:
 各締約国による誠実に核軍縮交渉を行う義務を規定(第6条)。
(ハ) 原子力の平和的利用:
 右は締約国の「奪い得ない権利」と規定するとともに(第4条1)、原子力の平和的利用の軍事技術への転用を防止するため、非核兵器国が国際原子力機関(IAEA)の保障措置を受諾する義務を規定(第3条)。
  (参考)NPTの主要規定・・・前文、条文全11条及び末文から構成。

* 核兵器国の核不拡散義務(第1条)
* 非核兵器国の核不拡散義務(第2条)
* 非核兵器国によるIAEAの保障措置受諾義務(第3条)
* 締約国の原子力平和利用の権利(第4条)
* 非核兵器国による平和的核爆発の利益の享受(第5条)
* 締約国による核軍縮交渉義務(第6条)
* 条約の運用を検討する5年毎の運用検討会議の開催(第8条3)
* 「核兵器国」の定義(第9条3)
* 条約の効力発生の25年後、条約が無期限に効力を有するか追加の一定期間延長されるかを決定するための会議の開催(第10条2)
*1995年5月、条約の無期限延長が決定された。
多くの国がこの条約に参加しており、世界に核が存在するという「現実」を見るならば、とりあえず非現実的と思える核の即時根絶を唱えるよりもその「拡散」を防止しようというのはわからないことは無い。条約は「核軍縮交渉の義務」も明記している。ただ、実際に軍縮が進んでいるとは思えないし、たまにそのようなニュースを見れば、その理由は平和のためというよりも核の開発と維持には「お金がかかりすぎる」からというものが多い。もちろん理由がどうあれ本当に軍縮が進むのならそれは大歓迎なのだが。
     
日本は被爆国である。アメリカの核実験等で被爆した地域もあるので「唯一の被爆国」とは言わないが、原爆を投下された国は日本だけである。長崎で見た悲惨な写真は忘れられない。ただ、表現が難しいが、誤解を恐れずに言えば「原爆を体験したわが国は核の根絶を訴えていく使命を持っている」という言い方には実は 100%賛成はしない。日本だけでなく、核を投下されていなくても、世界の人々には核を廃絶する使命があると思うからである。
     
さて、NPTでは、アメリカ、ロシア、中国、フランス、イギリスの5カ国の核保有を認めている。これはなぜか? それは1968年のこの条約締結時点ですでに核を持っていたからである。「早い者勝ち」である。もちろん条約を締結する上でその時点での実情を全く無視してしまっては返って条約の効力自体が無くなるだろうから、これは仕方の無いことだろう。核軍縮の交渉を「義務」としたことから、この条約自体がおかしいというつもりも無い。
     
ただ、「核抑止力」や「核の傘」という言葉がある。核はあまりに大きな破壊力を持っているので、核を持つことによりその報復を恐れる相手からの攻撃を防いでいるとか、日本はこのアメリカの核の脅威の「恩恵」で外敵からの攻撃を防いでいるという考え方である。そして、日本はこのアメリカの核の傘で守られているのだから見返りとしてアメリカの軍事行動に協力するのは当然だという発想もある。もちろん「日米安全保障条約」もあるが。
     
これは、学校での「いじめ」の問題と似てはいないか? 同列に論じることには問題も多いだろうから長くは書かないが、いじめ首謀者の傘下に入ることで身を守るものはいじめを行なっているのと同じことである。
     
全く同時に全ての核を廃棄することはたぶん不可能なことなのだろう。そしてそうである以上、例えばアメリカが最初に核を放棄したら今までおとなしくしていた国が突如反旗を翻すということも無いではないだろう。だけど、「核抑止力」は本当に「テロ」や「無法な攻撃」を抑止するためだけに働いていると言えるだろうか。「世界の法の番人」を自負するアメリカは、たびたび他国の内政干渉を表面上でも裏の面でも行なっているようだが、アメリカの思い通りになることへの反発を「抑止する」ために利用してはいないか。アメリカも日本も「民主主義国家」であり、「世界の民主主義を守る」立場にあるという考えを100%否定はしないが、他国を自分の思い通りにしたいという発想は民族自決権を否定するものであり、民主主義とは別物である。
     
核によって安全が確保されている? アメリカの核戦略の枠組みに入っている以上、アメリカを敵視する者からの「敵視」は避けられない。
     
     
     
⑥ 恐ろしい兵器
「核兵器廃絶」 ……賛成である。 「大量破壊兵器の根絶」 ……賛成である。 「毒ガス兵器の使用禁止」 ……賛成である。しかし、時々わからないことがある。それは、表現の問題なのかもしれないが、ある戦争で、戦争そのものについては肯定も否定もしないまま、そこでの毒ガス兵器の使用疑惑を追及したものがあった。人を殺す上で方法に善悪があるのか? 
      
毒ガスに関しては「化学兵器禁止条約」や「生物兵器禁止条約」なるものがある。たびたびで恐縮だが、外務省のホームページよりそのうちの「化学兵器禁止条約」の抜粋を書かせてもらう。
1.化学兵器禁止条約とその沿革
  # 化学兵器禁止条約(Chemical Weapons Convention: CWC、正式名称は「化学兵器の開発、生産、貯蔵及び使用の禁止並びに廃棄に関する条約」)は、サリンなどの化学兵器の開発、生産、保有などを包括的に禁止し、同時に、米国やロシア等が保有している化学兵器を一定期間内(原則として10年以内)に全廃することを定めたものである。これは、軍縮条約史上、一つの範疇の大量破壊兵器を完全に禁止し、廃棄させるのみならず、これらの義務の遵守を確保する手段として、実効的な検証制度を持つ初めての条約であり、大きな意味を持っている。CWCの実施に当たる国際機関として、化学兵器禁止機関(OPCW)が設けられている。
    
# 化学兵器に関しては、1925年のジュネーブ議定書により「窒息性ガス、毒性ガス等の戦争における使用」が禁止されていたものの、その開発、生産および貯蔵までは禁止されていなかった。
     
# 1969年、ウ・タント国連事務総長が、「化学・細菌兵器とその使用の影響」と題する報告書を提出したことを契機として、国連などの場で化学兵器の禁止が活発に議論されることとなった。その後1980年から軍縮委員会(その後の軍縮会議)において化学兵器禁止特別委員会が設立され、化学兵器禁止のための交渉作業が本格的に開始された。
    
# 東西間、南北間の対立のため交渉は長期化したが、1992年9月にいたり条約案が軍縮会議において採択され、1993年1月13日にはパリで署名式が開催された。発効は1997年4月29日。同年5月にはCWCの実施に当たる国際機関として化学兵器禁止機関(OPCW)がハーグに設立された。わが国は1993年1月に署名し、1995年9月に批准した。
   
# 2007年7月現在の締約国数は182カ国。国連安保理の常任理事国の他、インド、パキスタン、イラン等が既に締結しているが、北朝鮮、イラク、イスラエル、シリア、エジプト等は未締結である。
    
# OPCWの最高意志決定機関である締約国会議は通常年1回開催。各地域グループから選出された41カ国からなる執行理事会は通常年4回開催されている。また、締約国によるCWC運用検討会議が5年ごとに開催される(次回(第2回)開催は2008年4月予定)。
     
2.条約の主な内容
  # 締約国は、いかなる場合にも化学兵器の開発、生産、取得、保有、移譲及び使用を行わないことを約束する(第1条)。

# 締約国は、保有する化学兵器及び化学兵器生産施設を申告し、原則として条約発効後10年以内(2007年4月まで)に廃棄する(第4条、第5条)。

# 締約国は、老朽化した化学兵器及び他の締約国の領域内に遺棄した化学兵器も廃棄する(第4条)。

# 締約国は、条約に基づく義務を履行するため、法令の制定を含む必要な措置をとる(第7条)。
       
      (以下、略)
引用が少し長くなったが、外務省の言うとおり、この条約は「大きな意味」を持っているとは思う。
       
化学兵器は恐ろしい。その場で人間を殺すばかりか、全ての生物に影響を与え、さらに土壌や植物の中に長く留まってその悪影響を広げるものが多いと聞く。中には、殺傷能力は小さくてすぐに殺すことは無いのだが、殺さない代わりに遺伝によって子孫代々に影響し、結果としてその国家を破滅させるものが開発されたというニュースを聞いたような記憶もある。そんな化学兵器だけでも、まず使用を禁止し、その現存するものについても廃棄を申し合わせたことは、画期的であると言えるだろう。
      
しかし、「発効後の10年目」の2007年4月はもう過ぎている。本来なら世界から化学兵器は消えているはずである。だが、オウム真理教という小さな宗教集団でさえサリンを作れたように、核兵器に比べ入手や製造が比較的容易でそのわりには大きな被害を「期待」でき、さらには核実験のように大規模な実験により世界に「ばれる」危険も少ないことから、中小諸国にとっては「貧者の核兵器」として重宝がられる面もあるという。これらの現実への対抗策かどうかはわからないが、保有国が完全に廃棄したと言うニュースは僕は聞いていない。
      
「生物兵器禁止条約」についても少しだけ触れておくと、「生物兵器禁止条約」(Biological Weapons Convention: BWC、正式名称を「細菌兵器(生物兵器)及び毒素兵器の開発、生産及び貯蔵の禁止並びに廃棄に関する条約」という)の現在の締約国数は「化学兵器禁止条約」よりは少ないが158カ国であり、「生物兵器の開発・生産・貯蔵・取得及び保有の禁止(第1条)」、「生物兵器等の廃棄及び平和的目的への転用(第2 条)」、「生物兵器等の不拡散(第3条)」等、趣旨・内容とも「化学兵器禁止条約」と似たようなものである。ただ、こちらは「いつまでに」という期限はついていない。
      
核兵器も、通常兵器と違う点として、その破壊力もさることながら、放射能による広範囲にそして長期間にわたる汚染が挙げられる。放射能で汚染されたものを食べた生物やその空気を吸った生物ががその悪影響を遺伝で伝えていくという連鎖。 無くすべき兵器の中で「核」を特別視することをけして否定はしない。そして現在、世界の核保有量は全人類を5回殺せる量なのだという。その核ミサイルの発射ボタンを押す指揮命令系統の一瞬の誤りででも人類は壊滅的打撃を受けることになる。
      
      
      
⑦ 戦争はなぜ起きるのか
学校で「歴史」を習う。ジャワ原人やアウストゥラルピテクス、ネアンデルタール人などから始まっていくが、僕たちは歴史で何を勉強してきただろうか。もう学校を離れてかなりの年月が経つのでほとんど忘れてしまっているが、例えば広大な領土を持った国として「ローマ帝国」や「モンゴル帝国」、近いところでは多くの植民地を支配した「大英帝国」の名前がすぐ頭に浮かぶ。歴史上の有名人なんておそらく相当数を学んだだろう。「クレオパトラ」「ジャンヌ・ダルク」「ナポレオン」「フビライ」「マリー・アントワネット」「毛沢東」「周恩来」「源頼朝」「足利尊氏」「織田信長」「徳川家康」 etc. ……… 彼らが何をしたかを勉強していったが、その行動が「戦い」と全く関係ないという人物は何人いただろうか。国の名前の変遷も中国をはじめとして覚えるのが大変だったが、国名の変更はそのほとんどが「戦い」により支配者が変わったからである。そして歴史に「宗教」が絡んでくる。宗教については本当にわからないことが多いが、宗教とは心の安らぎを求めるもので「戦い」とは無縁と思いたいのだが、そのものずばりの名前のカトリックとプロテスタントの「宗教戦争」をはじめ、このページでも書いてきたイラク戦争にも中東のイスラム教が大きな影響を与えている。
      
「人類の歴史は戦いの歴史である」という言葉がある。比喩でもなんでもなく事実だろう。第一次世界大戦や第二次世界大戦の中で科学技術は大きく進歩した。ナチスドイツの人体実験によって医学も進歩した。もちろん文明の進歩は、戦いとは関係なく進んできた面もいっぱいあるだろうが。
      
人はなぜ戦うのか? なぜ殺しあうのか?
      
「自分が生きるため」という目的以外の理由で他の動物を殺戮するという動物は人間だけだといわれる。厳密に言うとこれは違う(子供の頃の「遊び」で他の弱い動物を殺してしまう哺乳類は存在する)らしいが、メスを取り合って戦いあうのもオスが自分(の子孫)を生かす戦いであり、テリトリーを奪い合う戦いもそのテリトリーに存在する獲物の確保が目的での本能であり、十分な獲物がある場合はそのような行動は生まれなかったという説もある。またこの戦いはテリトリーの支配者が決まってしまえばそれ以上(殺戮)には発展しない。「同じ種(しゅ)」同士が殺しあうのは本当に人間だけである。(カマキリが交尾後メスがオスを食べてしまうなどの行動をとる等、あまり詳しい話はパスしてください。まあこれも「生きる」ための栄養だが)
      
「戦争」や「たたかい」という言葉は必ずしも悪い意味で使われるとは限らない。だけど「殺し合い」は違う。このページで書いている戦いとは殺し合いのことである。その昔、たとえば源頼朝と源義経の戦いがあった。あの時はどちらかが相手を殺すことをためらったとしたら、自分が殺されるという時代だった。義経が悲劇のヒーローとなっているが、それは負けたからであり、勝っていれば評価はまた変わっていただろう。それはともかく、一度戦争が始まると「相手を殺さないと自分が相手に殺される」という状況が発生する。そして集団同士の戦いの場合、家族や仲間、同胞を殺されたことへの怒りも加わることになる。それは自分にとっては「正義の復讐」である。これを書いている僕も実は「赤穂浪士」の話が大好きで、吉良上野介が討たれる場面を「殺し」という単語は忘れて拍手喝采してしまうのだが、あれは要は仲間(主君だが)の死の恨みを殺戮という手段で晴らすという話である。若い頃に感動を覚えた「岩窟王(モンテクリスト伯)」も少し違うが「復讐」の物語である。過去の大作映画である「ベン・ハー」にしても、最後は「復讐心も消えてしまったよ」の言葉で涙するのだが、そこへ至る前に「復讐すべき相手の死」があったから納得できるのであり、敵が何事も無く生きていたらたぶん映画のストーリーに満足はできなかっただろう。世の中に差別や虐待が存在するとき、虐げられた者の反撃や復讐は、たとえその復讐が殺人であったとしても美談となってしまうことがよくある。このページの冒頭で「仮に僕が誰かに家族を殺されたとしたらその相手を殺したいと思うだろう」と書いたが、これは本音である。もし実際にそうなったとき、自分を思いとどめさすものは「どんな理由があっても人を殺してはいけない」なんて格好の良いものではなく、「ここで殺したら自分が警察に捕まる」ぐらいの考えでしかないだろう。戦争では往々にして「過去の歴史」に対する復讐心がその原因となるものがある。もちろん過去の歴史により現代が成り立っているのであり、その現代の情勢に対する不満や怒りが、それを作った過去の事実に対して向けられるのは当然なのだが、特に中東での例えばイスラエルを取り巻く状況というのは本当にわかりづらい。ただ、どちらの言い分にも「もっともだ」と思えることがないこともない。それは仲間を殺されたことへの復讐を「悪」と決め付けられない心情が働くからである。
      
では、復讐の応酬はどうすれば終わるのだろうか。源氏と平家の話で源氏が虐げられた恨みを晴らし天下をとったのは周知の事実だが、さらに歴史をさかのぼれば最初に権威を得たのは源氏であり、それを平家が逆転したという歴史がまず最初にあった。「やられたらやり返す」のが終わるのは、一方が完全に滅亡し、反撃する者そのものがいなくなるまで続くのだろうか。
      
そもそも、発端はなんだろう。たぶんほとんどの人は、「争い」の原因が何なのかを実は知っている。それは「人間の欲」である。 こう書くとこれから後に続いていくのは、「哲学」や「宗教」の世界である。僕は「Charry真理教」なんか始めるつもりは無いので、人間の欲はどうすれば ……なんてここで書こうとは思わない。そもそも自分自身が欲のかたまりであることはわかっているし、それを悪いことだとは必ずしも思っていない。ただ、欲にも人によって個人差があるのだろうとは思う。「あいつよりは上になりたい」も欲なら「あの人と仲良くなりたい」も欲であろう。自分自身の醜い欲を「醜い」と気づく「理性」も人間は持ち合わせているし、平和を願う心もけして建前だけではないはずである。長々と書いた復讐に関しても、両親や子供を殺されたことの怒りはけして消えないだろうが、おじいさんを殺された、そのまたおじいさんであった、はるか先祖であった、等々で、言い方に語弊はあるだろうが怒りの度合いは違うはずだが、その薄れゆくはずの怒りを煽り立てようとするのは何者なのか。理不尽に虐げられた者にそのことへの怒りが存在するのは仕方の無いことだが、その差別や虐待を作った人間・組織・制度・国家は何のためにそのようなことを行なうのか。一昔前、列強各国は争って植民地を増やしていったが、それはいったい誰のためなのか。世界の一部で近年まで制度として存在した「人種差別」のなかで、親は子に何を教えていたのだろうか。
      
民族間の長年にわたる対立の歴史、宗教の違い、侵略や圧制、大量虐殺、 ……… 当事者でなければわからないことがほとんどだろう。まして僕はそれらの歴史や現状について全く勉強をしていない。軽々しく「戦争はやめなさい」と言ったところで「お前に何がわかる?」と反論されるだけである。それでも言いたいのは、「人を殺す権利」が人にあるのかということ。最近の戦争では「誤爆」という言葉が時々使われるが、「民間人を殺してはいけない」のだが同じ人間でも「戦闘員」は殺してもよいのか。
     
      
     
⑧ 国際連合
はるか昔についてはどうなのかはわからないが、近年の戦争には「大義名分」が存在する。戦闘参加者のほとんどは「命令」による行動なのだろうが、自らの強い意志により相手を殺そうとする者も少なからず存在するのだろう。彼等の意志を作り上げるものは何なのだろうか。それはたぶん「環境」であり「教育」なのだろう。どんな国の学校の教科書でもその中に「人を殺しても良い」なんて書いてあるとは思えないが、その国の制度や統治者により他国や他者を小さい頃から「悪」と教え込めば、そして特に現代では与えられる情報の権力者による取捨選択により、それらは培われていくのではないだろうか。もちろん、このページを書いている僕もそれらによってでしか得ていない情報によって作られた意識により書いているに過ぎないのだが。
     
人の欲を無くすことなんてできず、「自由と平等」とはお世辞にも言えない実態が今の世界にあり、敵対関係が現実に存在する以上、それらの現実に目をつぶるのではなく、可能な限り速やかな紛争の停止と被害の拡大防止が現実的な目標とはなるのだろう。ただ、「人を殺す」行動を、のんびりと「そのうちやめよう」と言っていて良いものか?
     
前に書いた「核兵器不拡散条約」や「化学兵器禁止条約」「生物兵器禁止条約」という条約については、特に「核兵器不拡散条約」にはその中身に不満を感じつつも、その精神については肯定しよう。だが、世界には「安全保障条約」のように国家間での不戦を謳う条約は存在するが、戦争そのものを完全に否定する約束は存在するのだろうか? こういう話になると、まず思い浮かべるのは「国際連合」の名前である。他に「ジュネーブ軍縮会議」というものもある。国連は言うまでもなく第二次世界大戦後に発足した組織である。当初は大戦での戦勝国が中心だった。英語での正式名を「United Nations」と言うが、この名は大戦中の連合国をさす言葉でもあった。現在は192カ国(「国際連合広報センター」のホームページによる)が加盟している。こういう風に話を始めると長々と書いていきそうだが、今ここで詳しく国連の活動について書いていたらページがいくつあっても足りない。国連について書きたいことはただひとつ。その存在が、戦争を起こさないあるいは戦争の停止という機能をきちんと果たしているかということである。
     
話は少し前に戻るが、アメリカは、ブッシュ大統領の言う「テロとの戦い」の一環として、イラクのフセイン大統領が「大量破壊兵器」を所持しているとし、2003年3月に攻撃を開始した。そもそもイラクは「湾岸戦争」停戦の際、国連決議により「大量破壊兵器」を持つことを禁止されていた。アメリカのイラク攻撃の「大義名分」である。
     
湾岸戦争において、国連安全保障理事会は、まず1990年8月のイラク軍のクウェート侵攻を受け、イラク軍の即時無条件撤退を要求する「安保理決議660」を採択した。その後、「安保理決議661」、「安保理決議 678」と採択されていくのだが、前述のように「大量破壊兵器を廃棄すること」「その廃棄や不保持の確認のための査察を受け入れること」を条件に停戦が合意される。この合意内容が「安保理決議687」である。停戦に至る背景には多国籍軍の圧倒的武力があるが、とりあえず安保理はその機能を果たしたかに見える。
     
しかし、この「安保理決議687」が逆にイラク戦争ではアメリカの格好の口実となるのである。イラク戦争後、イラクには「大量破壊兵器」など無かったことが明らかになっているが、そんなことは当時は誰にもわからない。それでも「安保理決議 687」により設置された「国際連合大量破壊兵器廃棄特別委員会」でさえその存在には否定的だったとも言われる。それでも「有る」と主張するアメリカに対し、フセインもフセインで国連の査察に対し非協力的な態度をとったため、ここぞとばかりにアメリカは攻撃に踏み切ったのである。 このとき国連はどうしたか? 開戦の危機が迫る2002年11月、「安保理決議1441」を採択し、改めてイラクに「大量破壊兵器を破棄すること」「そのための査察に全面的に協力すること」を求めた。イラクはこれを受け入れたかに見えたが、査察への協力はやはり「非協力的」であった。
     
さて、この戦争では、アメリカの攻撃開始にイギリスはすぐ同調したが、フランスやドイツ、ロシア、中国等は否定的だった。国連の安全保障理事会には日本がさかんになりたがっている「常任理事国」というものがある。アメリカ、イギリス、中国、ロシア、フランスの5カ国であり、最大の特権として「拒否権」を持っている。この常任理事国の1国でも拒否権を発動すれば可決できないのに、フランス、ロシア、中国が反対していては、国連からの「大義名分」は与えられない。フランス等は「安保理決議1441」だけでは開戦には理由が不十分であると主張した。、この状況の中では当然ながら国連が「認めた」戦争とはならない。それでもアメリカは攻撃に踏み切った。「国連の承認など必要ない」のである。  
    
日本の「天皇制」に触れるのは非常に危険なことなので、慎重に書かせてもらうが、国連の存在と日本における「天皇」の存在には、少しだが共通点が無いだろうか? 日本の歴史の中でそれが一番わかりやすいのは「南北朝時代」である。この時代は足利尊氏と後醍醐天皇の対立に端を発するのだが、日本では武士が実験を握るようになってからも権力者が自分の権力を「正義のもの」と主張するために「天皇が認めた」「天皇の勅命」という錦の御旗を必要としていた。その極端な例として「こっちには天皇がいるよ」「こっちにだって天皇はいるよ」という事態となったのがこの時代である。権力者が、都合の良いときには「天皇の意向」を使い、邪魔なときには無視をする、あるいは圧力をかけて「天皇の言葉」を引き出す ……… アメリカにとって国連とはそのような存在ではないだろうか?世界の192カ国が参加する以上、全くの別行動や国連決議に真っ向から対立する行動はさすがにとれないだろうが、多くの国が「もう少し慎重に」といっている程度なら「関係ない」と突き進んでいく。そして、国連はその行動をやめさせる力など残念ながら無いのである。
     
こう言えば身も蓋も無いのかもしれないが、国連が有ろうと無かろうと、国連が賛成しようと反対しようと、ある程度以上の国力と軍事力を持っていれば、国は戦争に踏み切るのかもしれない。世界が第二次世界大戦に突き進む中で日本は「国際連盟」を脱退したが、どうしても気に食わなければ脱退という手もある。「そんなことは全世界の世論が許さない」と言うかもしれないが、仮にアメリカが突如国連を脱退して世界に対し宣戦布告を行なったとしたらどうだろうか。世論が許すかどうかにかかわらず圧倒的軍事力の前にあっけなくなびいてしまうかひれ伏すだけだろう。まあさすがにそんなことは有り得ないだろうが。
    
僕は国連不要論を唱えているのではない。国連の存在は現在でも地域の紛争調停に大きく寄与しているとは思う。ただ、紛争の当事者が常任理事国であったりすると「決議」に支障の出ることや、結局は「力を持つ国」の意向がその決議に反映されることが多いように思える。また、例えば「国連軍」なるものが組織されることはあるが、その軍隊は結局は各国の軍隊であり、自国の意に反する行動はとらない等で「決議」の実効力には限界があるように見える。しかし逆の言い方だが、その組織そのものとしては軍事力を持たず、紛争を極力平和的に解決しようという組織だからこそ、国連の存在意義はあるのだと思う。先に「国連について書きたいことはただひとつ。その存在が、戦争を起こさないあるいは戦争の停止という機能をきちんと果たしているかということだ」と書いたが、「きちんと果たしている」とはなかなか言えないと思うからこそ、「何とかならないものか」と思うのである。僕がこの「核と平和」のページで最終的に言いたいことは極めて単純なことで「人を殺すことはいけないことだからやめましょう」だけである。そしてそんな世界を作っていけるのは現存する大規模組織としては国連だけだと思うので、何とか「がんばって欲しい」と思うのである。以下に少し長くなるが、「国連憲章」の第1章「目的および原則」を、ホームページより引用させてもらう。
第1条〔目的〕
国際連合の目的は、次の通りである。
  1. .国際の平和及び安全を維持すること。そのために、平和に対する脅威の防止及び除去と侵略行為その他の平和の破壊の鎮圧とのため有効な集団的措置をとること並びに平和を破壊するに至る虞のある国際的の紛争又は事態の調整又は解決を平和的手段によって且つ正義及び国際法の原則に従って実現すること。
2. 人民の同権及び自決の原則の尊重に基礎をおく諸国間の友好関係を発展させること並びに世界平和を強化するために他の適当な措置をとること。
3. 経済的、社会的、文化的又は人道的性質を有する国際問題を解決することについて、並びに人種、性、言語又は宗教による差別なくすべての者のために人権及び基本的自由を尊重するように助長奨励することについて、国際協力を達成すること。
4. これらの共通の目的の達成に当って諸国の行動を調和するための中心となること
       
第2条〔原則〕
この機構及びその加盟国は、第1条に掲げる目的を達成するに当っては、次の原則に従って行動しなければならない。
  1. この機構は、そのすべての加盟国の主権平等の原則に基礎をおいている。
2. すべての加盟国は、加盟国の地位から生ずる権利及び利益を加盟国のすべてに保障するために、この憲章に従って負っている義務を誠実に履行しなければならない。
3. すべての加盟国は、その国際紛争を平和的手段によって国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決しなければならない。
4. すべての加盟国は、その国際関係において、武力よる威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない
5. すべての加盟国は、国際連合がこの憲章に従ってとるいかなる行動についても国際連合にあらゆる援助を与え、且つ、国際連合の防止行動又は強制行動の対象となっているいかなる国に対しても援助の供与を慎まなければならない。
6. この機構は、国際連合加盟国でない国が、国際の平和及び安全の維持に必要な限り、これらの原則に従って行動することを確保しなければならない。
7. この憲章のいかなる規定も、本質上いずれかの国の国内管轄権内にある事項に干渉する権限を国際連合に与えるものではなく、また、その事項をこの憲章に基く 解決に付託することを加盟国に要求するものでもない。但し、この原則は、第7条に基く強制措置の適用を妨げるものではない。
       
      
      
⑨ 通常兵器の使用なら良いのか
だんだん「戦争が起きるのは仕方ない」という結論にこのページが向かっているような気もしてきたが、とにかく言いたいことは「人を殺すことは理由の如何にかかわらず悪である」ということである。
     
イラク戦争において日本はアメリカの行動に全面的な支持を表明した。民間施設への「誤爆」に関してもアメリカがその一部を認めるまでは認めようとしなかった。アメリカの日本における代弁者は政府である。まあこれは今に始まったことではないので、今さら書いてもしょうがないのだが、そもそも政府として戦争に賛成するとはどういうことなのか。僕が昔から不思議に思うことに、どうも日本においても世界の多くの国においても、戦争をその地域や規模や使う兵器によって区別しているのではないかと考えられる面がある。
    
「⑥恐ろしい兵器」で書いたが、「核兵器不拡散条約」、「化学兵器禁止条約」、「生物兵器禁止条約」のように、世界には特定の武器・兵器に関してその使用の禁止や廃棄を謳った条約がある。こういう種類の条約はほかにもある。例えば地雷等に関しては、各国NGOの奮闘により結ばれた「対人地雷の使用、貯蔵、生産及び移譲の禁止並びに廃棄に関する条約(オタワ条約)」(この条約には143カ国もの国々が参加しているが、アメリカ、中国、ロシア等はこのオタワ条約の締約国となっていない)や、対象兵器をもう少し拡大した「特定通常兵器使用禁止制限条約(CCW)」というものもあるし、「大量破壊兵器」の運搬手段となる「弾道ミサイル」に関しては、条約ではないが、「ハーグ行動規範(HCOC)」というものもある。
     
特定の兵器に関する条約に関しては、その特定の兵器が通常の兵器に較べ、はるかに大きな破壊力や影響力を持ち、かつ、その被害が民間人・戦闘員を問わず「不特定多数を対象とする」ため、その使用は銃などの撃ち合いに比べ桁違いの被害を引き起こし、特に核兵器に関しては人類の滅亡すら招きかねないものだけに、それらを制限・禁止・廃棄しようという趣旨には僕はなんら異論を挟まない。しかし、逆説的に考えれば、これら特定の兵器を禁止しようとする背景には、通常兵器による戦闘員同士の殺し合いという戦争に対しては、仕方の無いものという考え方が存在しないだろうか。もちろんこれは違うだろう。国連憲章「前文」には以下のように書かれている。(「国際連合広報センター」ホームページより)
われら連合国の人民は、われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認し、正義と条約その他の国際法の源泉から生ずる義務の尊重とを維持することができる条件を確立し、一層大きな自由の中で社会的進歩と生活水準の向上とを促進すること、並びに、このために、寛容を実行し、且つ、善良な隣人として互に平和に生活し、国際の平和及び安全を維持するためにわれらの力を合わせ、共同の利益の場合を除く外は武力を用いないことを原則の受諾と方法の設定によって確保し、すべての人民の経済的及び社会的発達を促進するために国際機構を用いることを決意して、これらの目的を達成するために、われらの努力を結集することに決定した。よって、われらの各自の政府は、サン・フランシスコ市に会合し、全権委任状を示してそれが良好妥当であると認められた代表者を通じて、この国際連合憲章に同意したので、ここに国際連合という国際機関を設ける。
「言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害」とはもちろん二度にわたる世界大戦のことである。確かに、約2300万人が犠牲となった第一次世界大戦、さらにそれをはるかに上回る約5400万人の犠牲者を出した第二次世界大戦は、その犠牲者数において他の紛争や戦争とは言葉どおり桁違いのものがある。しかし、「前文」の趣旨は、その被害の規模にかかわり無く、戦争そのものを「言語に絶する悲哀」と指摘し、その廃絶のために国連に集う全ての国が最大限の努力を惜しまないことを宣言しているものと信じたい。
     
一部「共同の利益の場合を除く他は武力を用いない」という表現には疑問を感じるし、この表現が「国連軍」の拠り所となっているのかもしれないが、全192カ国全ての共通の敵といったら、それこそ、SFの「宇宙からの侵略者」ぐらいではないだろうか。もちろん、命の尊さなど全く眼中に無い狂信的なテロ集団がこの世界に存在することを悲しいかな認めないわけにはいかない。アメリカのアフガニスタンやイラクへの攻撃には断固反対するが、それにも増して「アルカイダ」の「9.11同時多発テロ」ように、民間人への被害拡大をまだ「誤爆」と言い訳するアメリカどころか民間人そのものを殺戮することによって自分たちの存在をアピールし自分たちの主義・主張を認めさせようとするやり方には、これが本当に同じ人間のすることなのかと思う。ただ、困難なことなのかもしれないが、それでも「武力を用いない」方法での解決を目指して欲しい。日本でのオウム真理教の非人道的殺戮行為に対しての裁判での解決(もちろん死んだ人たちが帰ってくるはずも無く、真の解決なんて有りえないが)のようにとはいかないのかもしれないが、「目には目を」というやり方は、復讐の連鎖を生むだけである。まして、アメリカはアフガニスタンにおいて、「アルカイダ」構成員だけしか殺さなかったのか。
     
戦争は必ず「人の死」を伴う。軍事拠点を全くの無人であることを確認してから他の民家等には一切の被害を出さずに破壊することなど現実的にはありえない。そして銃などの通常兵器は「施設を破壊する道具」ではなく「人間を傷つける道具」である。民間での一般の事件においても「正当防衛」という概念がある。、銃の所持に関しては銃社会のアメリカにおいてでもいろいろな議論のあるように、自分の身を守る上で武器はあるいは「必要悪」なのかもしれない。フォン・ブラウンが現在の宇宙開発に欠かせないロケットをなぜ開発しようとしたのかという例が示すように、人類の科学技術の発展に「相手よりも破壊力のある武器を作ろう」という面があったことは否定できない。古代遺跡の発掘でも必ず当時の武器が出土する。人類は一度手に入れてしまった「武器」というものを捨て去ることなどたぶん無いのだろう。
      
ただ、考え方を変えることは全く不可能なことなのだろうか。立場の違いや意見の違いを武力による力の政策で解決しなくてはならないのか。歴史は進歩してきていると思う。恐らくはるか昔においては「問答無用」であったことが現代では少なくとも「まず話し合いありき」であり、話し合いや交渉・提案の不調というステップはとりあえず踏んでいるように思う。武器の使用はあくまで最終段階のはずである。あとはこの「最終段階」を迎えないために、どれだけ粘り強い努力ができるかにかかっているのではないだろうか。
      
      
      
⑩ とりあえずできること
長々と書いてきたが、これを読んだ人たちからは、「それだけご立派なことをおっしゃるなら、さぞかし日頃からその平和の実現とやらに取り組んでいらっしゃるんでしょうねぇ」と皮肉たっぷりに言われそうだが、そういわれると僕には返す言葉は無い。 何もやっていない。 そんな人間がえらそうなことを書いてホームページに載せるなど、どういう神経をしているのかと疑われても仕方が無い。また、これは何かの論文ではないので、「その問題に触れるならこのことも書かなきゃ」という指摘があるかもしれないが、自分が今まで聞いたことのあることがらに関しての記述です。もちろん正確性は必要なので「引用」という形も多くとらせてもらいました。全くの勝手な「独り言」です。
     
ただ、一言だけ言わせてもらえるならば、「無関心」よりもとりあえずは関心を持っていきたいということです。そして、そんな中で、何かの拍子に「この行動に参加しよう」と思うことがあれば、自分にできる範囲でやっていきたいとは思っています。
      
この長い駄文に最初から最後まで付き合ってくれた方がいたらお礼申し上げます。
     
    
     

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