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2008年6月11日 (水曜日)

東京・秋葉原の無差別殺傷事件での加藤容疑者の両親の謝罪について

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東京・秋葉原で起きた「無差別殺傷事件」で、加藤容疑者のご両親が、取材陣の要請に応じて(「NEWS ZERO」)、青森市内の自宅前で、「息子が重大な事件を起こし、亡くなられた方、怪我をされた方、本当に大変申し訳ありません」と述べ、深く頭を下げたというニュースが、本日、夜、流れた。

     

今から書くことは、亡くなった方々の遺族や、怪我をされた方のご家族の神経を逆撫でするかもしれない。そればかりではなく、多くの国民に叱られるかもしれない。しかし、僕が今まで多くの事件で思ってきたことを今回も感じたので、書かせていただく。

それは、「なぜ、マスコミは、容疑者の両親に取材を申し込むのか?」ということだ。 今回の加藤容疑者の両親に対する取材陣の言葉遣いは、「丁寧」だったと言って良いだろう。しかし、それは、両親が取材に応じたことが大きい。過去、僕はテレビで、多くのこういう画面上で、「馬鹿やろう!」「テメエの息子が人を殺したんだぞ!その態度は何だ!」「いつまでも黙ってて、被害者の遺族に、それで済むと思うのか!」と罵声を浴びせるマスコミの姿を見てきている。会見に応じた場合でもだ。まして、玄関を固く閉ざして取材を拒否すれば、ボルテージは何倍にも跳ね上がる。執拗にインターホンを押し、スピーカーにマイクを近づけて声を拾おうとする。まるで、自分たちが「正義の代表」であり、相手は「罵倒されて当然の者」であるかのように。

日本では昔からそうだ。「親の顔が見たい」という言葉は、誰でも一度は口にしたことがあるだろう。子供の責任は両親の責任。それは「教育」という点では100%の否定は難しい。だけど、だからといって、容疑者や犯人の両親に取材することによって、マスコミは彼らに何を言わせたいのか。今回の短いテレビの映像でも、「この事件を防ぐことは出来なかったんでしょうか?」という質問がされた。「両親としての社会的責任、遺族に対する責任をどう思うか?」という質問もされた。そして多くのフラッシュがたかれていた。これらのビデオや写真を残すことが、マスコミの「知る権利」なのか。「自分たちは国民の代弁者として、取材している」つもりなのか。

加藤容疑者(まだ、「犯人」とは呼べないのだろう)は「鬼畜」だ。彼についてどう報道し、どう責めようが、それは彼に原因がある。彼に取材するなら、どんな言葉を使っても僕は一向に気にしない。だけど、彼の両親は別個の人格を持っている。極端な話だが、父親が「俺には関係ねえ」と思ったとしても、その言葉や人格は非難されるべきだが、それは「両親として」ではない。「人間として」だ。

僕は、犯人(容疑者)の両親の自宅に押しかけ、取材を強硬に(今回についてはわからないが)申し込み、応じなければ怒声・罵声を浴びせ、テレビで「こんなひどい態度です」と宣伝するマスコミは、昔も、今も、そして未来においても、絶対に好きにはなれない。

    

    

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